存在しない語り手

なんだかわからないが不気味と感じるものをウェブでいろいろと探していたら、
「いいな、いいな人間っていいな」という曲の歌詞が、誰の視点で描かれているのか想像するとなんだか怖い、というものがあった。

こんなかわいらしい歌詞であっても、確かに誰の語りなのか、分からないということになにやら不可思議な不気味さを感じてしまう。

しばらくこのことが気になっていたので、考えていた。
アガサ = クリスティ『アクロイド殺し』は、結局、読み始めの最初のころは分からないのだが、読み進めて行くうちに、「犯人の視点」から物語全体が語られているということに気づく。これは一つの叙述トリックである。デイヴィッド = ロッジは『小説の技巧』の中で、様々な小説の表現技巧について触れている。例えば、電話や手紙といった小説内のメディア装置を用いることによって得られる描写上の効果など、様々な事例を用いて、小説の技巧を分類している。この『アクロイド殺し』で使われた「信頼できない語り手」ということについてもまとめている。

1人称であれ、3 人称視点で描かれているものであれ、物語内の語り手が人間である以上、知覚には限界があるわけで、その限界が小説表現の制約でもあり、叙述トリックの基盤にもなっているわけである。推理小説では、時間や空間や物理法則といった制約があるからこそ、推理やトリックが成り立つのである。

その一方で、小説内の世界は虚構のものであるため、必ずしも、この世界の制約をそのまま取り入れる必要はない。私は浪人時代、埴谷雄高の著作『不合理故に我信ず』に、神保町の古本屋で出会って以来、彼の著作に非常に強く惹かれてきた。特に未完の大作『死霊』には、形而上学的な語りの技法と彼独自の哲学とが一体となって、様々な現実には存在しえない物語装置が出現する。キリストが魚によって弾劾される最後の審判、生まれてくる前の存在が生まれたくない語る青服、死に行くものの意識が解体され存在のざわめきに解体される様を描写する「死者の電話箱」といった装置、によってこの現実世界の様相が相対化されていく。小説の中では、時間や空間や重力は乗り越えられており、決して存在しえないどんな存在にも如何様に語らせることが可能なのである。