生物と虚像

動物心理学の世界には、超正常刺激 (supernormal stimulus) と呼ばれる現象が存在する。ある種の鳥は、似た色と形であればより大きな卵を暖めようとするのであるが、通常の卵よりも大きい模型の卵をこの鳥の側に置いてみても、その卵を暖めようとするのである。さらに、2倍、3倍というあり得ない大きさの卵の模型を置いてみると、これも暖めようとするのである。この鳥にとって、この模型は紛れもなく、暖めるという行為を誘う卵なのである。また、 ある種のランはメスの蜂に似たような形態をしている。オスの蜂はその形態に引き寄せられて、花の中に潜り込み、ランの受粉を知らず知らずのうちに手助けすることになる。昔は田んぼがそこらじゅうにあったせいか、秋になればトンボの飛ぶ姿を数多く見た。田んぼが駐車場になり、アスファルトで固められてしまった今日、それでも、トンボを見ることはあるだろう。またしばしば、日光を反射して煌めく車のボンネットに産卵しようとするトンボを見る。これも、ある種の超正常刺激である。このように、実際には存在しないモデルの方が実物よりも、はるかに強くその動物の反応を引き起こす例が多く存在する。トンボにとって、磨き上げられた車のボンネットは、現実の田んぼ以上に、リアルな美しく反射する水面のリアリティを持っているのだろう。それは、ある反応を誘うために生物学的に仕組まれた刺激反応系が生み出す実在しない像であり、つまりは虚像である。虚像とは、実在しないにも関わらず、生物にとって非常に強いリアリティを持って立ちあらわれる現実以上に現実的な非在である。生物学者ユキュスキュルは、それぞれの生物が知覚し作用する世界の総体を環世界、つまりその生物に固有な世界像、と呼んだが、これは行為と感覚刺激の間で生起する、外在世界とは異なる虚像に他ならない。

Bone, Black

Bone black という顔料がある。象牙や獣の骨を蒸し焼きにして、水洗いし、精製したもので、要は骨が炭になったものである。絵画の画材として使われるこの顔料は、ボーン(骨)という素材、『物質』であると同時に、ボーンブラックと呼ばれる『色』という抽象的観念でもある。岩だったり動物由来の素材だったりするのだが、そういった物質が塗りたくられた平面が何かそこには存在しない観念を表象するということが絵画における大きな問題であるわけだ。そして、そこにある顔料やメディウムの固まりを見ないことが前提となって、絵画はなんらかの観念を表象するのである。しかし、その一方で、絵画によって生じる言語や意味、観念、記号などに還元し得ない絵画の物質性も確かに存在する。

アメリカの美学美術史研究者であるジェームス=エルキンスは、この絵画の物質性に注目して非常に興味深い論考をしている。エルキンスの仕事については、このページが参考になるだろう。彼は、言語、概念、意味に囚われた私たちが、いかに多くのものを見過ごしているか、という非常に興味深い指摘をしている。しかしながら実は、絵画の物質性と概念・記号性の対比によってエルキンスが主張したいのは、絵画の記号論的解釈から捨象されてきた物質性を称揚するということではなく、つまり、

私たちは、そこにある何かを見ないことによって、そこにはない何かを見るのである。

という視覚の不可避の成立条件なのである。

前述のシモンソンの作品、bone, black, lamp, black は、そういった物質と概念・記号の間に横たわる広大な領域に言及しているように思われる。


Bone, black, lamp, black… a second from half a second ago / acrylic paint, plywood, wood, cast iron(Dimensions variable) / 2010
bone, black, lamp, black というタイトルが示しているのは、骨でもあり、黒でもあるという顔料の物質性、絵画の物質性と、色という観念、記号との間のゆらぎ、イメージの生成と消失の瞬間であろう。

裏っかわの不気味さ



Jakob Simonson, "Untitled" (Cerulean Blue Deep, Cerulean Blue, Cerulean Blue [imit]); acrylic paint, plywood, wood, fluorescent lamps; dimensions variable (painting: 282x456 cm).

絵画は通常、前を向いている。

しかしながら、絵画は表面であると同時に、物理的な構造物でもある。

この作品は Jakob Simonson (ヤコブ=シモンソン)というスウェーデン出身の若手の作家のものだが、この作品を見ていて感じるのは、演劇の舞台装置の裏っかわが見えてしまっているような、あるいは、某夢の国で装置や演出の裏っかわが見えてしまっているような不気味さである。絵画がイメージ生成のための装置として成立している危うい一線をそのまま露呈させたような面白さがある。一見、ミニマリズミックなこぎれいさが飛び込んでくるものの、実は非常にドロドロしたところに挑んでいるような印象が焼き付けられた。

ミニマリズムも通常、現実が捨象された非常にこぎれいな作品のイメージが想起されるけれども、それは素材が概念やイメージを生成するための最小限度のラインを追求するからであって、実はそれが扱っているモノと概念のボーダーというのは、実は半分裏っかわが見えてしまっているような、不気味なところなのかもしれない。

教科書的な美術史の話としては、絵画の持つ物理的な構造を取り入れようとした試みとしては、抽象表現主義の作家達、ジャクソン=ポロックやマーク=ロスコらの巨大な作品群が挙げられるだろう。特に崇高さ(sublime) についての議論とも関係して、マーク=ロスコによるチャペルの作品は絵画の外に実在する空間性無しにはもちろん語ることはできないし、あるいはダン=グラハムのように、観客の側の「見る」という行為と作品の空間性にフォーカスした作家もいる。


The Rothko Chapel, Houston, Texas

しかし、シモンソンの作品は、同様に建築的スケールにフォーカスしているものの、これらのあくまで絵画の表面こちらがわで表現された作品とは異なる次元を持っている。こういう作品を見ていると、絵画によって可能なことが、実はもっとたくさんあるのかもしれない、と感じる。

世界を創る、ということ

芸術的表現は、世界の本質について語るために、積極的に、意図的に虚像を取り入れることを選んだ。ボルヘスはその著『伝奇集』の中で、


「長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物が、すでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差し出す事だ。」

と語っている。そのようにして創られる世界は、実在しないものの、強力なリアリティを持って立ち現れる。そういった思慮深く意図的に創られた嘘 = 虚像の上に成りたっている。芸術家は虚像を映し出すことによって、新しい世界を手に入れる。そこには、現実には存在しなかった広大な新しい世界を作り出したい、そこに自分だけの王国を築きたいという欲望、がある。嘗て存在しなかったもの、そしてこれからも存在しえないであろう何かを、虚構の概念装置によって作り出したいという欲望。芸術的表現は常に、時間と空間と重力を超越している。現実を超えた世界への憧れとして、芸術家は常に虚像の世界に進んで挑んで行った。ギリシャプラトンは、そういった非現実、虚構を作り出す詩人を認めることができずに、彼の”共和国”(republic)から排除してしまう。歴史の早い段階で、それ以来、芸術は常に反社会性、反現実性を問われることになってしまう。しかし、果たして、虚構の世界と、現実世界は完全に断絶しているのだろうか。事実、真の芸術は、虚像を作り出すことで、現実世界の深層に迫ろうとしているではないか。

海王星はなぜ青いのか?

実在性を探索するサイエンスに関するイメージにさえ、実は虚像が多くみられる。それには大きな理由がある。つまり、科学技術が発達することで、人間は技術によって人間が持っている感覚器よりも幅広い世界を知覚する手段を得たが、我々自身の感覚器の帯域幅が広がった訳ではない。それゆえ、技術によって得られる世界像を我々の狭い感覚器の帯域幅に収めるというプロセスが必要になるのである。そこにはある種の嘘が存在する。天文写真においては、フィルムやセンサーによって微弱な光学エネルギーを蓄積することによって発色させるわけだが、そこには撮影者の恣意性が介入するため、実際の間近で見たとしたら見えるであろう色とは異なるのである。それゆえ、海王星の青さ、その青の美しさは虚像なのである。青く着色することで人間は海王星という手に届かないものを獲得し、我々の理解の手中に収めるのである。こうして、観察という客観的行為においてさえ、対象物をイメージとして定着させる段階において、常に現実から剥離した虚像を必要とするのである。我々は、虚像を通して実在性を認識し、実在に近づこうとする。その虚像を通してしか、海王星という実在、この宇宙という実在には迫ることができないのである。

Bounce and Squash

リアルよりリアルな虚。

人の心の中にあるイメージ。

イメージに近いこと、をリアルである、と言う。
またその一方で、

現実に近いことも、リアルである、と言う。

現実世界、と、イメージの世界。対局にあるはずの二つの世界の関係性は、「虚」について考えて行くことで、より深く理解できるはずである。

きょ【虚】

きょ【虚】

[音]キョ(漢) コ(呉) [訓]むなしい うそ そら から うつけ うつろ うろ
〈キョ〉
1 からっぽで何もない。むなしい。「虚無/盈虚(えいきょ)・空虚」
2 うわべだけで中身がない。「虚栄・虚飾・虚勢・虚名・虚礼」
3 うそ。いつわり。「虚偽・虚言・虚構・虚実・虚報・虚妄」
4 気力や精気が足りない。「虚弱・虚脱/腎虚(じんきょ)」
5 備えがないこと。すき。「虚虚実実
6 邪心を持たない。「虚心/謙虚」
7 「虚数」の略。「虚根」
〈コ〉
1 むなしい。「虚空・虚無僧」
2 うそ。「虚仮(こけ)」
[難読]虚貝(うつせがい)・虚言(そらごと)