スイッチについて

グレゴリー=ベイトソンがスイッチについて非常に興味深いことを言っている。


われわれは日常、"スイッチ"という概念が、"石"とか"テーブル"とかいう概念とは次元を異にしていることに気づかないでいる。ちょっと考えてみれば分かることだが、電気回路の一部分としてスイッチは、オンの位置にある時には存在していない。回路の視点にたてば、スイッチとその前後の導線の間には何ら違いはない。スイッチはただの"導線の延長"にすぎない。また、オフの時にも、スイッチは回路の視点から見て、やはり存在してはいない。それは二個の導体(これ自体スイッチがオンの時しか導体として存在しないが)の間の単なる切れ目 - 無なるもの - にすぎない。
スイッチとは、切り替えの瞬間以外は存在しないものなのだ。"スイッチ"という概念は、時間に対して特別な関係を持つ。それは "物体"という概念よりも、"変化"という概念に関わるものである。

存在しない語り手

なんだかわからないが不気味と感じるものをウェブでいろいろと探していたら、
「いいな、いいな人間っていいな」という曲の歌詞が、誰の視点で描かれているのか想像するとなんだか怖い、というものがあった。

こんなかわいらしい歌詞であっても、確かに誰の語りなのか、分からないということになにやら不可思議な不気味さを感じてしまう。

しばらくこのことが気になっていたので、考えていた。
アガサ = クリスティ『アクロイド殺し』は、結局、読み始めの最初のころは分からないのだが、読み進めて行くうちに、「犯人の視点」から物語全体が語られているということに気づく。これは一つの叙述トリックである。デイヴィッド = ロッジは『小説の技巧』の中で、様々な小説の表現技巧について触れている。例えば、電話や手紙といった小説内のメディア装置を用いることによって得られる描写上の効果など、様々な事例を用いて、小説の技巧を分類している。この『アクロイド殺し』で使われた「信頼できない語り手」ということについてもまとめている。

1人称であれ、3 人称視点で描かれているものであれ、物語内の語り手が人間である以上、知覚には限界があるわけで、その限界が小説表現の制約でもあり、叙述トリックの基盤にもなっているわけである。推理小説では、時間や空間や物理法則といった制約があるからこそ、推理やトリックが成り立つのである。

その一方で、小説内の世界は虚構のものであるため、必ずしも、この世界の制約をそのまま取り入れる必要はない。私は浪人時代、埴谷雄高の著作『不合理故に我信ず』に、神保町の古本屋で出会って以来、彼の著作に非常に強く惹かれてきた。特に未完の大作『死霊』には、形而上学的な語りの技法と彼独自の哲学とが一体となって、様々な現実には存在しえない物語装置が出現する。キリストが魚によって弾劾される最後の審判、生まれてくる前の存在が生まれたくない語る青服、死に行くものの意識が解体され存在のざわめきに解体される様を描写する「死者の電話箱」といった装置、によってこの現実世界の様相が相対化されていく。小説の中では、時間や空間や重力は乗り越えられており、決して存在しえないどんな存在にも如何様に語らせることが可能なのである。

おびただしい夢をはらんでいる無

清岡卓行『手の変幻』

したがって、ミロのビーナスの両腕の復元案は興ざめなものになる。なぜなら、問題になっているのは、「表現における量の変化ではなくて、質の変化」であるからだ。両手があるかないかという量の問題ではなく、両手を失った彼女への感動の質の問題である。両腕を失った彼女への感動と、両腕のあった彼女への感動とは全く質の異なるものである。両腕のある彼女は「限定されてあるところのなんらかの有」であり、両腕のない彼女は「おびただしい夢をはらんでいる無」である。両腕のない彼女は、あらゆる美の可能性を秘めている芸術そのものなのである。

さらに、問題を突き詰めれば、失われたものが両腕でなければならなかったことである。手とは、「世界との、他人との、自己との、千変万化する交渉の手段」、それらの「関係を媒介するもの」、そうした関係の「原則的な方式そのもの」である。つまり、手は自己と外部とを結ぶパイプなのである。ミロのビーナスがそうした意味をもつ手を失ったことで、逆に時間的にも空間的にもあらゆる可能性を獲得したのは不思議なアイロニーである。

漫画と科学


今から 90 年前に、寺田寅彦は『電気と文芸』というエッセイ集の中で、漫画と科学の同型性について言及している。彼がここでどのような漫画を想定していたのかは、定かではない。おそらく、欧米の風刺漫画や、北斎漫画のような戯画的なものを言っているのではないかと想定される。作家でもあり、物理学者でもある寺田寅彦のこのエッセイにおける視点は、漫画の本質を鮮やかに露呈させている。

科学が行ってきたのは、個別にこの宇宙に広がっている様々な物理現象を求心運動、等加速運動、正弦運動などに分解してその中の一つを抽出し他を捨象する事によって、そこに普遍的な方則を設定する、ということである。しかし、決して、落下物は、法則の通りにはこの現実世界では落下しない。物理学が扱えるのは理想運動であって、その理想運動自体は実在しない、様々な運動に共通して見いだせる『型』なのである。

一方、漫画が行ってきたのは、ある対象の形態的、心理的の現象の中である特別な部分を抽象してその部分を誇大しあるいは挙揚して表示するということである。例えば鼻の大きい人の鼻を普通の計測的の大きさの比以上に拡大して描いたり、喜怒の感情の発現を誇張した身振りで示す。また、あるデリケートな抑揚をつかまえて、これを少しアクセンチュエートする事によって効果を挙げ、あるいは手足の機微な位置によって複雑な感情を暗示するものもある。猿が馬に乗っているにしても、その姿勢なり態度なりが、乗馬者のある特異な、しかし言葉では云い表わせない点を巧みに表わす事によって、漫画という表現の価値が決まるのである。

漫画の目的とするところはやはり一種の真である。必ずしも直接な狭義の美ではない。ただそれが真であることによって、そこに間接な広義の美が現われるように思う。科学の目的もただ「真」である。そして科学者にとってはそれが同時に「美」であり得る。漫画が実物に似ていないにかかわらず真の表現であるという事は、科学上の真というものに対する多数の人々の誤解をとくために適切な例であるように見える。漫画が実物と似ない点において正に実物自身よりも実物に似るというパラドクシカルな言明はそのままに科学上の知識に適用する事が出来る。


世界認識としての虚像

現実世界のふるまいや構造、あるいは原理に忠実であることをリアルと呼ぶことがある。しかしその一方で、心の中のイメージに近いものも、リアル、と呼ばれることが多い。つまり、リアリティの拠り所には、二つあって、一つは外界の現実世界、もう一つは私たちの内面にある心象世界なのである。このような二つの世界という構図において、良い題材になるのは、映像という技術によって生成されるイメージである。

複数の静止画像によって動きを作り出すというアニメーションの技術は、今日では普遍的な表現手段になりつつある。アニメーションの歴史の上で、私たちはそれによって生成される世界が現実とはかけ離れたものであることに早い段階から気づいていた。 Bounce and Squashing 、つまりビヨンビヨンというボールの跳ねる軽快なあの独特な動き、はディズニーに多く見られるようなアニメーションにおける基本的技法である。実際には、現実世界において、ボールがこのように振る舞うことはあり得ない。しかしながら、同時に、私たちの目には、このような動きを呈するボールは非常に「それらしく」映るのである。事実、アニメーションが現実世界とは違うように振る舞うという発想は、アニメーション自体と同様に長い歴史を持っており、ウォルト・ディズニーはもっともらしい不可能 (plausible impossible) ということについて、早い段階から言及していた。これは当然ながら、ある種のリテラシーに基づいたアニメーション表現における文化的記号では、ある。しかし、それは物体の振る舞いを抽象しながら、またアクセンチュエートすることによって得られた、現実には存在しない、非常にリアルな彩度の高い像、つまりは虚像である。こういった表現型が探索され、獲得され、長く採用されているということの裏には、このような虚構の振る舞いが特有の鮮やかな運動の人間の心理的内面的リアリティを生成する力を持っているからだろう。

萌えと虚像

石器時代のビーナス像には、不自然に胸部や臀部に歪められた現実にはあり得もしない非人間的な形態が伴う。胸部や臀部の形態というのは、強度の強い本能的記号である。そこには生身の人間よりも強烈な人間らしさが込められ、生への意志や願望、あるいは祈願といった人間の内面に如実に寄り添う力があった。我々は、いびつに歪んだ土の固まりを通して、身体に備わった神秘性を崇め、またそこに強烈な人間らしさを封じ込めることができたのだ。だからこそ単なるこの土の固まりがある種の儀式性を獲得し得たのだろう。もちろん現代においても、こういった身体的表現によって意図的に作られた虚像は多く見られる。ファッション紙やポップカルチャーに見られる身体にまつわるイメージである。もはや生身の人間をとうに超えてしまった造られた身体像が、実在する我々の生身の身体を脅かしているところに、現代の人々がもつボディ・イメージに関わる病的な状況が展開されている。あるいは、日本のオタク文化は、多くの身体的記号によって構成されるイメージに溢れている。これらの身体表象は、ある文化内において効力を発揮する身体的記号( =『萌え記号』)に遠心力をかけ、それらの記号群を寄せ集めることで得られる生身の身体よりも遥かに彩度の高い虚像である。この虚像という概念に関して、動物と人間を分つのは、人間はこのような虚像を扱う --- つまりそれを探索し、理解し、ある目的のために意図的に作り出す --- ことのできる、唯一の生物であるということだろう。

このように我々は、現実世界が呈するリアリティとは別種の、しかしながら強烈なリアリティを我々は虚像の中に見る。この虚像を通して得られるリアリティとは一体何なのだろうか。

"完璧すぎる"視覚

イメージの世界を探索する手段として技術が可能にしたものにコンピュータグラフィックスがある。コンピュータグラフィックスは現実からあらゆるノイズや偶然性を捨象し、現実の光線の反射と透過を物理的にモデル化することによって非常にリアルなイメージを生成することを可能にする。しかし現実世界においては、光線が本当にそのような理想条件の元で、我々の網膜に結像するわけではない。それは現実を参照しつつも、現実以上にリアルな、あまりに完璧すぎる視覚なのである。現実をコピーしようとすればするほどそれから遠ざかるという皮肉がそこにはある。コンピュータグラフィックスが向かう現実世界をモデル化しようとする方向性はある意味では、アニメーションが行ってきたこととは真逆であろう。しかし、モデル化を行うということは、現実の物理現象の振る舞いを抽象し、不純物を捨象する、ある意味ではアクセンチュエートすることである。アニメーションにおいて、形態や動きのある特定の部分が挙揚され抽象され誇張されるのと同様に、物理モデルにおいては、現実のものの振る舞いが、求心運動、等加速運動、正弦運動へと還元される。しかし、これら科学者が作り出す物理的法則は、物理モデルとは科学理論によっては実証されているものの、現実世界にはそのままでは一つたりとも存在しない、虚像なのである。